日中戦争と日本の敗戦
実質的に中国の大部分を掌握していた中華民国政権総裁の蒋介石は抗日に関しては日本との対話を望みつつ米ソの協力を期待するという消極姿勢であった。だが、当時の中国大陸は蒋介石による北伐のため国内が統一されたかにみられたが、実際には軍閥や共産勢力の存在によって依然として不安定な状況が続いており分裂国家に後戻りする危険性をはらんでいた。このような状況下で国内の革命軍兵士をはじめ、民衆すべてを統制することは出来ず、彼らが反欧州・反日感情に駆られて起こす運動や事件は対外関係に悪影響を及ぼしたが、これは流言蜚語が飛び、正しい情報が伝わりにくいという中国大陸の風土も関係していた。反日感情の高まりは1931年の満洲事変以後特に目立ちはじめ、中国国内で日本人に対する抗日事件が多発した。
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また民国側では1936年に蒋介石が捕縛される西安事件が発生、これを機に中国共産党との取引によって国民党と共産党の間で第二次国共合作が実現、抗日民族統一戦線が形成され、一層抗日的姿勢が強化されることとなった。1937年、盧溝橋事件が発生、抗日思想を背景とした中国側の好戦的な攻撃行動と、これを口実とした対支一撃論を唱える日本軍部の拡大派の圧力で、日本政府の不拡大方針は第2次上海事変以降覆され、国民政府が首都としていた南京をも制圧した。当時の日本の大衆の多くは長引く不況と南京暴動や通州事件など、積もり積もった中国での抗日事件や反日運動に対する怒りが花火のような形で支那事変を支持しており、日本軍の攻撃は腐った支那人に活を与える正義の戦いだ、と捉えていた(支那軍膺懲)。